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Mitashikyoぴあ・さくらんぼ

甲州路バスツアー桜桃紀行


恵林寺・川浦温泉











 研修日:  2011年11月5日(土)
 研修先:  山梨県甲州市周辺(恵林寺・川浦温泉「山県館」)
 参加者:  22名
 天 候:  晴

 《行 程》

 三鷹駅北口(8:20)⇒調布中央高速IC⇒談合坂サービスエリア⇒勝沼中央高速IC⇒恵林寺見学⇒川浦温泉「山県館」(入浴宴会休憩)⇒牧丘道の駅(買い物休憩)⇒勝沼中央高速IC⇒談合坂サービスエリア(トイレ休憩)⇒八王子中央高速IC⇒三鷹駅北口 解散

 ≪桜桃紀行≫

 三鷹駅北口の交番脇で、参加者の皆さんを待ちながら、「みたかふれあい号」の待機している所へ行ってみると、何と以前「みたかふれあい号」として、三鷹市が運営をしていたときのバスドライバーであるK,Yさんが、方針転向により2年前から三鷹市が「みたかふれあい号」として委託業務をしている和泉観光のドライバーとして転職し、こうして私達と再会したのである。あの温厚なるKさんにまた、バスを運転して頂き日帰りバスツアーが、出来るので皆さん大喜びだ。今回8時10分には参加者22名が勢揃いをし、先ずは中央高速道調布ICへ向かった。

 今回の参加者は、私の友人である曾ては美人看護士の2名が新たに加わり、8名が外部のお仲間、そして14名が三鷹視覚障がい者協会の会員で総勢22名が、誰でも参加できるMitashikyo≪ぴあ・さくらんぼ≫の組織構成で、晩秋の甲州路を訪ね行くバスツアーだ。バスは順調に中央高速道の調布ICに入り、皆さんにそれぞれ簡単なる自己紹介をして貰う。やはり、異彩を放っているのが、御年90才の矍鑠として過去何回もこの「三鷹ふれあい号」のバスツアーに参加している私の友人であるS,Hさんであろうか。未だにHomeHelperとして、働いているのだから実に恐れ入ってしまう超元気ぶりだ。。

 車内はお互いに和やかな雰囲気で談笑しながら、バスは快適に中央高速道を走り行く。そしてトイレ休憩ポイントである談合坂Service areaへ着き、ここで休憩を済ませ再び中央高速道を甲州路目指しエンジン音も軽やかに走り行く。今日はお天気も良く小春日和の一日みんな健康で、バスツアーが出来る喜びに満ちあふれ明るさ一杯だ。今回の目的地である恵林寺と川浦温泉「山県館」は、私が会代表として就任した最初の「みたかふれあい号」の日帰りバスツアーで、当時の参加者であるEさんご夫妻の背を丸めお互いにかばい合いさくらんぼ狩をしていたお姿が今でも目に浮かぶ。そのご主人も西方浄土へ旅立ち改めて時の変遷に遠くを見る目になる。

 やがてバスは中央高速道勝沼ICへ到着し、ここから一般車道へ出て恵林寺へ向かう。途中家の軒には、ここら辺りで取れる渋柿が皮をむかれ干し柿にするため縄で束ねられ数珠状に数多くぶら下がっている。これも甲州路の風物であろう。そしてバスは恵林寺の駐車場へ到着し、ここから歩いて恵林寺の見学に行く。境内の両脇には大きな杉の木が歴史の年輪を深く刻み堂々と立ち並びそんな中、私達は砂利道をザックザックと音を立てて恵林寺の山門を潜り拝観料を支払い歴史ある恵林寺の内に入る。その廊下を歩くとキュッキュッキュッと音がする。これがこの恵林寺の特徴でもある鶯張りの廊下だ。

 それではこの恵林寺について少し述べてみよう。

所在地 山梨県甲州市塩山小屋敷2280
 山号 乾徳山
 宗派 臨済宗妙心寺派
 本尊 釈迦如来
創建年 元徳2年(1330年)
 開基 夢窓疎石
札所等 甲斐百八霊場9番
文化財 四脚門ほか(重要文化財)
 庭園(国指定・昭和19年(1944年)6月26日指定)

 沿革

 鎌倉時代の元徳2年(1330年)に、甲斐国の守護職であった二階堂貞藤(道蘊)が笛吹川上流の所領牧荘を寄進し、夢窓疎石を招き開山。二階堂氏邸を禅院としたのが始まりとされる。もとは円覚寺派に属し、関東準十刹の寺格を有していた。甲斐における臨済宗の中心となり、絶海中津や龍湫周沢らが住持となる。応仁の乱で荒廃するが、甲斐武田氏の菩提寺に定められて復興し、京都から高僧が招かれる。永禄7年(1564年)には武田晴信(信玄)が寺領を寄進し、美濃崇福寺から快川紹喜を招く。天正4年(1576年)4月には、快川を大導師に、嫡男の勝頼を喪主として信玄の葬儀が行われた。
天正10年(1582年)4月3日、天目山の戦いで武田氏が滅亡した後に恵林寺に逃げ込んだ六角義弼の引渡しを寺側が拒否したため、織田信忠の派遣した津田元嘉・長谷川与次・関成重・赤座永兼らによって焼き討ちにあった。この際、快川紹喜が燃え盛る三門の上で「安禅必ずしも、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と偈を発して快川紹喜は焼死したといわれ、後代には快川の遺喝として廣く知られ、再建・改築された三門の両側にも、この偈が扁額として掲げられている。一方で、これは『甲乱記』では快川と問答した長禅寺僧高山と問答した際に高山が発した言葉で同時代の記録においては見られず、近世には臨済宗の編纂物において快川の遺喝として紹介されており、佐藤八郎は快川の遺喝でなく後世の脚色である可能性を指摘している。
信長横死後に甲斐を領した徳川家康により、天正の織田勢焼き討ちを逃れ、那須の雲巌寺に遁れ潜んでいた末宗瑞曷を招き再建された。また、江戸幕府の将軍徳川綱吉時代に側用人であり、晩年に甲府城の城主となった柳沢吉保の墓所にもなっている。また、検地帳簿として『恵林寺領検地帳』が残されている。

伽藍

 明治38年(1905年)の出火で焼失した後、再建したものもあるが(本堂・庫裡)、桃山様式の四脚門(国の重要文化財)や夢窓作といわれる庭園(国指定の名勝)がある。

 武田不動尊

 武田信玄の菩提寺である恵林寺明王堂には武田不動尊坐像及二童子像が安置されている[1]。
『甲陽軍鑑』『甲斐国志』巻七五に拠れば武田不動尊像は信玄が京から仏師康清を招聘し、信玄と対面して彫刻させ、信玄自らの頭髪を焼いて彩色させたものであるという。像内体幹部底には内刳りされた空洞部に布張りされた漆塗底板があることから、確認されていないが像内納入品が存在している可能性も考えられている。
中尊像は像高92.9センチメートル。胸前の条帛には金泥で武田家家紋である花菱文が描かれている。『軍鑑』『国志』では信玄の姿を写した像であるとする伝承が記されているが、武田不動尊は左手に索、右手に剣を持つ伝統的な造形で、相貌も伝統的な不動明王像の表現であることが指摘されている。
仏師康清は本像以外に県内でいくつかの作品を残しており、大井俣窪八幡神社(山梨市)の旧蔵であると考えられている清水寺(山梨市)の勝軍地蔵像や、円光院(甲府市)の勝軍地蔵像・刀八毘沙門天像などが知られる。

 そんな由緒ある恵林寺を見学し、一同、再び駐車業へ戻る。その途中で和美が渋柿をたくさん仕入れてきた。家に帰り皮をむき干し柿にして食べるのだともう、笑顔満面で話をしている。そんな話を聞き他の方々もどうやら渋柿を買っている様子だ。そして程なくバスは川浦温泉「山県館」へ到着した。ここでゆっくりと温泉に入り、美味しいお料理を食べながらのお楽しみ宴会を開くのだ。

 それではこの川浦温泉「山県館」についてパンフレットから引用してみよう。

 甲州笛吹川渓谷
 信玄公開発之湯 
 源泉かけ流し100%の宿
 源泉湯宿を守る会、五つ星の宿
 日本温泉遺産を守る会・認定の宿
 山県館「やまがたかん」信玄公の隠し湯 政府登録国際観光旅館   

 “春はみずみずしい木々の新緑、秋は満山の紅葉と四季それぞれの趣を見せる甲州の名川「笛吹川」の上流に位置する当館は「信玄公の隠し湯」として戦国時代、永禄四年以来幾多の人々に親しまれてまいりました。毎分千二百五十リットルの湧出を誇る温泉は「せせらぎの湯」、「信玄公岩風呂」、をはじめ数多くの浴場・露天風呂をご用意しております。また採れたての山菜や川魚、甲州牛、鮑の煮貝等心を込めたお料理をご賞味下さい。
 
 当館から歩道をくだり川沿いにある「信玄公岩風呂」開放的な露天と川のせせらぎが心地よいです 渓谷の高台にある「せせらぎの湯」は周囲を甲斐の山々に囲まれた景色を一望 プライベートな空間「貸切桧露天風呂」”

 一同、宴会場に荷物を置き、男性諸氏は、早速ご自慢の露天風呂へと向かう。エレベーターで階下へ行き斜面上の階段を下り、斜面の崖の一端を岩出組んで作った大小二つの混浴の露天風呂「せせらぎの湯」がある。眼下には谿谷を笛吹川が流れロケーション抜群の露天風呂にザブーンとばかり湯に浸る。掛け流しの滑らかな温泉が実に肌に心地よくジーンと身体にしみ込み疲れが取れるようだ。「ウーーン、ババンババン、ババンババン、ここは甲州川浦の湯」といい湯だね・・・!!!  (^o^)  (^_^)

 そんな名湯に一浴してから、イヨイヨお待ちかねの宴会モードに突入した。山県館ご自慢の料理、ヤマメの塩焼き、鯉の刺身、山菜の天麩羅、鍋料理等々がテーブルに並べられ、それらに箸を付けビールを飲む。こうして温泉に入り美味しい料理とビール、これぞ当に至福のひと時だ。そんな飲食も進みほろ酔い気分になった頃、10月22日に都盲協福祉大会が世田谷区の昭和女子大人見講堂で開催されたときの芸能コンクールで、我がMitashikyo≪ぴあ・さくらんぼ≫の4名が「東京Rhapsody」の熱演をした際の再現とばかりその時の私を含め4名がそれを疲労する。そして歌集を皆さんに回しその中から選曲しそれをみんなで大声を出して歌う。

 そんな楽しい宴会もやがてお時間となって、イヨー「ポポポン、ポポポン、ポポポンポン」と三本締めでお開きとなる。この山県館に別れを告げ、バスの車内はもう、みんな笑顔笑顔の幸せ一杯のご機嫌モードだ。そこでバスツアーの帰り道での恒例になっている「何時に着くでしょう」の時間当てゲームを皆さんに出題した。そしてバスは途中、道の駅「まきおか」でお土産を買うため一同、下車し皆さん、それぞれ買い物に余念が無い。和美はまたまた、渋柿をたくさん仕入れてきた。そんな買い物を済ませバスは中央高速道勝沼ICへ向かい、中央高速道へ入った。

 最初はバスは順調に走っていたのだが、大月当たりから、富士五湖へ観光に行った車が徐々に増え出し、とうとう大渋滞に巻き込まれ、皆さんの「何時に着くでしょう」の時間当てゲームの
時間が大分狂ってきたようだ。 (;_;)
もう、バスはノロノロと走り、今日は土曜日と言うことが思い知らされ、今後は絶対に平日にバスツアーをしようと思った。それでもようやくトイレ休憩談合坂Service areaに到着した。皆さん、もう、慌てて洗面所へ掛けて行く。きっと大分我慢をしていたのであろう。そんなトイレを済ませまた、バスは縦隊の中ノロノロと進み行く。時間は刻々と過ぎバタバタと時間当てゲームの時間が空しく過ぎて行く。 (^^;)

 それでもどうにかバスはやっとの思いで八王子ICへ到着した。ここでさすがは名ドライバーのKさんだけのことはあるものだ。そんな高速道路に見切りを付け一般車道甲州街道にハンドルを切り、三鷹駅目指しバスは走る。こうして時間がかかりながらも、楽しかった思い出を胸に刻みどうにか三鷹駅北口へ到着することが出来た。因みに「何時に着くでしょう」の栄冠を得たのは、久しぶりの参加であるO,Mさんであった。

なお、後日談として、お土産で買い求めた渋柿を翌日和美が、皮をむきそれを天日で干し、丁度2週間で待ちきれず食べたところ絶妙なる甘さで、美味この上ない出来上がりであった。来年はまた、この時期に訪れたくさんの渋柿を買い求めて、また、干し柿にするのだと多いに張り切っていた。


「ポポポン、ポポポン、ポポポンポン」
「ポポポン、ポポポン、ポポポンポン」
「ポポポン、ポポポン、ポポポンポン」

〜〜「オシマイ」〜〜





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